Miki
仏教徒でもないけど…
▶︎ 仏教とは何か?
そもそも「仏教とは何か」という疑念を生じる背景に、仏教そのものの多様性が関与しているだろう。
具体的な多様性の例として、インドや中国、朝鮮、日本などの地域性があること。また、伝播の違いや形態・思想でも多様性を認め、日本国内においても多数の宗派がある。
以上のように多様性を認めながら、いずれも「仏教」と総称される由縁を以下の三要素に分けて論じたい。
一、「仏教」という言葉の意味
仏教とは、仏(ゴーダマ・ブッダ)の教えだけを意味するものではなく、「仏になるための教え」と解釈すべきである。ここでいう「仏」とは、悟った人(覚者)を意味しており、ゴータマ・ブッダになることを意味するものではない。
二、仏教の構成要素
仏教の構成要素は「三宝」と呼ばれる「仏」・「法」・「僧」から成っており、この三つによって構成されていないものは「仏教」とはならない。
1)「仏」とは、2500年前の歴史的な実在人物であるゴーダマ・ブッダをさす。彼がいなければ、仏教は存在しなかった。
2)「法」とは、仏教の教えを意味する。仏によって悟られた内容は「真理」とされ、それが説法によって広められ、入滅後に「経」としてまとめられた。その他、教団の規則をまとめた「律」、経を解釈した「論」があり、これら三つを「三蔵」といい仏教の聖典となっている。
3)「僧」とは、本来は個人でなく「仏教の教団」を示し、仏の教えを聞き、従い、実践修行する集団である。当初は五比丘によって「僧」が成立したが、その後整備され四衆、七衆までを教団として取り扱うこともある。
仏教に限らず、宗教は社会的なものであるため、仏教の構成要素に「僧」が含められる。
これら三宝は、「三帰依文」という形で伝承されてきた。
三、仏教の基本的思想
仏教がさまざまに展開する歴史のなかで、仏教の基本的、且つ、本質的教えとして「七仏通誡偈」と「四法印」がある。
1)七仏とは、ゴーダマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)を含め、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くながんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)という七人の仏(覚者)を意味する。
この七仏通誡偈という考えには、仏と仏教の普遍性を保ち、時代や地域が異なっても共通しているという意味をもつ。
そういった意味で、「七仏通誡偈」とは仏教の思想の基本といえる。
特に三行目の「自浄其意」は、「自らの心を浄くしなさい」と解され、諸悪の原因を社会や運命などに帰属させるのではなく、自らのこころ(意)に求めるといった仏教の特徴的思想といえる。
また、四行目の「是諸仏教」とは、「これが諸々の仏の教え」と解され、前述の七仏に共通しており、単称でないことが重要であろう。
これらの教えは、人間が何をすべきで、どのように生きるべきか、という仏教の実践論を示し、仏教の最も基本的な思想である。
2)四法印とは、「仏教の四つの教え」と解されるが、ここでいう「法」とは、サンスクリット語のdharma(ダルマ)に該当し、多様性をもつ語となっている。
語源的には「支え」を意味しており、そこから「規範、習慣、規則、義務、善、徳、真理、ものごと」などを意味するようになった。
この「法」の意味について、仏教聖典の解釈家ブッダゴーサは「聖典、因、徳、非情物、もの、教説」と分類し、ドイツの研究者ガイガーは「法則、正当、基準、教説、真実、最高の実在、経験的物事」としている。

「七仏通誡偈」では「七仏」が普遍性や共通性を保っているように、四法印では「印」がその役割を担っている。また、「七仏通誡偈」が仏教の実践論を示しているのに対し、四法印では仏教の世界観や人生観を表している。
四法印の一つ「諸行無常」に含まれる「行」も多様性のある語である。
サンスクリット語のsamskara(サンスカーラ)を漢訳したもので、「集まって作ること」などに訳され、「形成するはたらき」といった意味を含む。
その意味合いから「諸行無常」の「行」は、「原因となるもの」をさし、
諸行無常とは、「原因によって成立しているもの」や「作られたもろもろのもの」は無常であること。すなわち、一切のものは、生じたり変化したり滅したりして、常住(=一定のまま)ではないということを意味している。
また、「四法印」は「一切皆苦」を除いた「三法印」としてまとめられることもある。この「一切皆苦」が除かれる背景について文献では明記されていない。ただ、一般的にはすべてが苦であることを理解すること自体が難しい。
つまり、仏(覚者)からみる「苦」は、一般的な「楽」をも含んでおり、一般化しがたい事由なども想像される。

▶︎ マインドフルネス(心理療法)と仏教
昨今になって注目を集めている健康法に「マインドフルネス」、もしくは「マインドフルネス瞑想法」と呼ばれ、「禅」を基礎とした精神療法がある。
これらはいずれも呼吸をもとに自己のなかにある煩悩、特に「貪瞋痴(とん・じん・ち)」と呼ばれるこころの動きに気づきを促す。
「貪」とは「欲」を、「瞋」は「怒り」を意味し、この2つが大きく関わる。
そして、これらが自分の中で強くなると、「それらと自分を混同してしまう」ことが起き、それを「痴」と呼ぶ。
「痴」というのは、「無知」の「痴」であり、「混乱」と訳したり「delusion」と英訳したりする。
つまり、自分を自分じゃないものと混同するというこころの働きを意味する。
この働きは、英訳で「selfing」とも表し、「自分を作り出す」というこころの働きが煩悩の大元にあると言われる。
マインドフルネスでは自己の内観を経て、これらの「貪瞋痴」の働きに気づき、対処することなく手放していくことで、欲も怒りも混乱もない平和なこころの状態を生み出す。
しかし、人間は社会生活をするうえで思考を使って暮らすため、これらの気づきも途切れてしまう。
それを前提にすれば、呼吸、感受、こころに現れる現象がどのような「法則性」に従っているかに気づくことが重要となるだろう。
仏教では、「痴」の対極にあるこころの状態を「智慧(ちえ)」と呼ぶ。
智慧とは、呼吸・感受・こころに現れるすべての現象が従う法則性を指し、「無常・無我・苦・寂静」といった仏教でいうところの「四法印」もしくは「三法印」を意味する。

仏教の出発点は、「一切皆苦(人生は思い通りにならない)」と知ることから始まる。
ーーなぜ苦しみが生まれるのか。
仏教ではこの原因を、「諸行無常(すべてはうつり変わるもの )」で、「諸法無我(すべては繋がりの中で変化している)」という真理にあると考えている。
これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になる。
つまり、苦しみから解放される。と、説いている。
これが、目指すべき「涅槃寂静(仏になるために仏教が目指す"さとり")」となる。
マインドフルネス…いわゆる「禅」などでは、瞑想することによって「貪瞋痴」を払い、欲も怒りも混乱もない平和なこころの状態(涅槃寂静)の教えに近づく体験を経て、新境地に刮目することで自制心を保つことができるのだと言える。
▶︎ おわりに
これまでの長々しい話がなんであったかのか…。 それは、読んだ人が決めることだ。笑
仏教徒でもなく、専門家でもないので有識者からすれば、「ナニ言ってんだい!」な点も大いにあるだろう。しかし、議論は不要だ。なぜならば、私自身が仏教徒でないからだw
少なくとも、生きることに疲れ、自死することも考えはじめている人が見れば、ブッダの思想に賛同しやすいのではないだろうか?
哲学的ともいえる仏教の教えは、信徒でなくとも勉強できて、感心することが多い。(上から?)
「一切皆苦」で八方塞がり、四苦八苦な状況の人は、図書館などで「仏教」の入門書でも読んでみてはどうだろうか。もちろんそれが、キリスト教でもいいだろう。
数多く存在する動物の中で言語を持ち、道具を扱い、「宗教」を持つのはヒトだけだ。
我々はなぜ、神や仏といった大きな存在を必要とするのか。・・・そこはあなたに任せたw
